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「亡国の姫と老剣士」
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 むかしむかし、あるところに一つの大きな国がありました。その国は名をツィーシー騎国と言い、古来より剣術が盛んで歴史上の名だたる騎士を何人も排出している国でした。ツィーシー騎国はその誇るべき騎士達と共に五百年もの時を刻んできた、由緒正しく、歴史ある大国だったのです。
 ある年、ツィーシー騎国王は自らの長女姫であるメイシア王女の十五歳の誕生日を祝う祝祭の儀を行いました。王は王宮の庭という庭を国民達に向けて開け放ちました。十人からなる護衛騎士団が千は入るであろうと言われている王家の遊び場に、自由な出入りを許したのです。そして、その広い庭のどこからでも見えるというツィーシー騎国王自慢の高楼に自慢の長女姫を登らせ、国民達に挨拶をさせました。
 メイシア王女は、小柄ながらもすらりとした体躯とまばゆく輝く金の長い髪を持ち、柔和な微笑みを湛えた可憐な少女でした。まるで妖精であるかのようなその姿に、ある者はほぅ、とため息をつき、ある者は手を合わせて拝むように彼女の一挙一動を見詰めていました。
 挨拶が済むと、メイシア王女はゆっくりと高楼から降り、国民達の中にすっ、と踏み入りました。王女の侍女達と、護衛の騎士達もそれに続きます。
 その中には当然、当代一と謳われる老騎士、フィルグの姿もありました。緋のマントの下に垣間見える黒ずんだ銀の鎧は鈍く輝き、彼が年老いても尚意気軒昂である事を示しています。
 六十を超えたばかりの初老の騎士は、ツィーシー騎国の民達に英雄と呼ばれる存在です。その英雄を引き連れ、メイシア王女が民に近寄るという予期せぬ出来事に、国民達は当然ざわめきます。慌てて祝いの言葉を叫ぶ者、万一を想定して持ってきた花を指し出す者、感激のあまり昏倒する者。その様々な反応に、王女は逐一言葉を、あるいは態度を返していきました。
 二十歩あまり進んだ頃でしょうか。王女の目の前に、一人の少年が転がるように飛び出してきました。どうやら、王女を見る為に人ごみの中で背伸びをした結果、バランスを崩して前につんのめったようです。年の頃は、十二か、十三か。黒い瞳と髪を持つ、利発そうな少年でした。腰には、この国の子どもが皆そうするように、樫の木剣を佩いています。
「大変。大丈夫ですか? 怪我は……」
 飛び出したまま転んでしまった少年に、思わずメイシア王女は屈み込み、手を差し出しました。そしてそのまま、白く柔らかな手で少年の顔に付いた土を払い落します。
 すると、少年は一瞬ハッとしたような顔をした後、そのまま固まってしまいました。黒い瞳でジッと王女を見詰めています。
「どうかしましたか? 私の顔に、何か……?」
 思わず王女が問うと、少年はまたもやハッとしました。そして、少しもじもじしながら言うのです。
「あの、僕……! 姫様みたいに綺麗な人を、見た事がなくて……」
 周りの大人達のニヤニヤした視線に恥ずかしそうにしながら、少年はやっとそれだけの言葉を絞り出しました。
「えっ……?」
 思わず、王女はパッと両手を顔にやり、頬を赤らめました。すると、それに負けず劣らず顔を赤くしながら、少年は思い切って叫ぶように言いました。
「……僕! 頑張って剣の稽古を受けます! それで、とても強くなって、フィルグ様みたいな国一番の騎士になって……一生、姫様を守ってみせます!」
 それだけ言うと、少年は真っ赤になった顔を下に向け、名前も名乗らずにその場から駆け去りました。あとには大人達の笑い声と、「ニール! あんた何やってんの!」という甲高い女性の声が残りました。そんな温かいざわめきの中、王女はただぼおっと駆けていく少年の後姿を眺めていました。


  ◆


 それから、数年後の事です。ツィーシー騎国は突如隣国に攻め込まれ、呆気なく五百年の歴史に幕を引いてしまいました。ツィーシー騎国を襲った隣国は名をマジュ魔国と言い、ツィーシー騎国とは対をなす魔法使いの育成に重きを置く国でした。この国は王の強力な魔法で周辺の部落を次々と滅ぼし吸収する事により生まれた新興国で、その得体の知れなさと残虐さから、周辺諸国には恐れられていました。
 マジュ魔国の王は魔法使いのみで編成された軍でツィーシー騎国を取り囲み、蟻一匹すら通れないような強力な結界を張り巡らせました。ツィーシー騎国の民は、上は王から下は下働きの子どもまで、皆一様に国の中に閉じ込められてしまったのです。
 その後は、一方的な殺戮劇でした。マジュ魔国の魔法使い達は、結界の内側に強力な炎の魔法を放ったのです。国は炎に包まれ、人々は悲鳴をあげながら逃げまどいました。しかし、強力な結界に閉じ込められたツィーシー騎国の民達は、国の外へ逃げ出る事が叶いません。多くの民が焼き殺され、あるいは屋内で熱気にあてられ続けて蒸し殺されました。
 そして国民の半分以上が死に絶えた頃、マジュ魔国の軍隊はツィーシー騎国内に魔法騎士を突撃させました。魔法騎士とはその名の通り、魔法も使える騎士の事です。彼らは存分に剣を振って地を紅に染め、剣の届かぬ場所にいる敵兵に対しては魔法や呪術を用いて命を奪い、次第に王宮へと近付いていきました。
 王宮では王や王子、姫を初めとする王族達を守ろうと、多くの騎士達が剣や槍、弓を構えて魔法騎士達を待ち受けていました。騎士達は、ツィーシー騎国内からかき集められた数少ない魔法使いや魔法騎士達によって呪い避けのまじないを受け、一時的に魔法や呪いでは簡単に死なぬ身体となって敵の魔法騎士達に斬りかかります。すると敵もさるもので、剣や自分自身に魔法をかけました。ある者は炎や雷を纏う強力な剣でツィーシー騎国の騎士に斬りかかり、ある者は通常の三倍もの筋力で相手の剣を受けました。場は、あっという間に混戦状態となります。多くの騎士や魔法騎士達が血を流し、怒号が飛び交う戦場を伝令達が駆け抜け時には地へと下されました。
 そんな中、遂にツィーシー騎国の防衛線の一部が突破されてしまいました。敵の魔法騎士達はそこから王宮内へとなだれ込み、あっという間に王の居室を取り囲みました。王や王子、姫達を、それぞれの護衛騎士が守るように背の後へと隠します。
 十八歳となったメイシア王女の前には国一番の老騎士、フィルグが立ちます。腰に帯びた剣――代々この国一番の騎士に振るわれてきた聖剣、セフィルタがすらりと抜き放たれ、銀の刃がきらりと輝きました。他の騎士達もそれに倣い、次々に剣を抜いていきます。
 それを馬鹿にするかのように魔法騎士達は笑うと、口元で何かをブツブツと唱え始めました。すると魔法騎士達の身体はみるみるうちにムクムクと大きくなっていき、筋肉が鋼のように硬くなりました。彼らの剣は真っ黒い亡霊のような物を纏っているかのように見えます。流石の護衛騎士達も、この敵の魔法騎士達の異様な様子に思わず後ずさりました。その瞬間、それを待っていたかのように魔法騎士達は剣を横に薙ぎ払いました。一瞬のうちに、多くの騎士達の首が宙を舞います。室内に、姫や侍女達の悲鳴が響き渡りました。魔法騎士達は血煙りが立つ中で更に剣を振り続けます。一つ、また一つと床に転がる騎士達の首が増えていきました。
 そして、遂に王族の一人を守っていた護衛騎士が全滅し、守られていた王族は敵の前に野晒しとなりました。彼は野太い悲鳴をあげ、彼の妻である女性は慌てて自らの護衛騎士を夫の元へと遣りました。しかし援けは間に合わず、夫であった男性は串刺しとなり、援けに向かった騎士達は首を床に転がす事となりました。魔法騎士達が、今度は夫と護衛騎士を失った女性の元へと剣を向けます。女性は甲高い悲鳴を上げ、王や王子は自らを守るなけなしの護衛騎士達を女性の元へと差し向けました。
 それが、魔法騎士達の狙いだったのです。
 魔法騎士達は王や王子の護衛が側を離れた瞬間にくるりと踵を返し、剣を王達に向けました。護衛が離れ丸裸同然の王と王子は、抵抗する間もなく首と胴体を切り離されました。床に倒れた肉塊が、どさりと音を立てました。
 事が終ったのを見計らったようにマジュ魔国の王、ヘイグが部屋へと足を踏み入れました。彼は、床に転がる王の首から王冠を剥ぎ取ると、鮮血がベッタリと付着したそれを喜々として自らの頭に載せました。
 その瞬間、ツィーシー騎国は滅びたのです。
 部屋の最奥から父と兄の死、そしてツィーシー騎国の滅亡を目撃したメイシア王女は、その場にヘタリと座り込みました。彼女を守る為、王女の護衛騎士達は体を寄せ合い守りを固めました。それを嘲笑うかのように、ヘイグは片手をサッと振ります。すると、騎士達の身体は突然、蝋で固めたように動かなくなってしまったのです。
 動けなくなった騎士達を尻目に、ヘイグは王女の前へと立ちました。王女は、せめてもの抵抗でヘイグを力いっぱい睨みつけます。騎士達も、それに倣いました。
 それが気に入らないヘイグは、残酷な愉しみを思いつきました。彼はメイシア王女に、ある呪いをかけたのです。それは永遠に歳をとる事無く、死ぬことも無いという呪いでした。その呪いで死ななくなったメイシア王女を元ツィーシー騎国の王宮に幽閉し、永遠にマジュ魔国に支配されるツィーシー騎国を見せつけてやろうという目論見です。
 かくして不老不死となった王女は幽閉され、フィルグを初めとするメイシア王女付きの騎士達は――熟練の騎士達は勿論、見習いの少年騎士達まで――皆国外追放となりました。主を守る事が出来なかった無念を抱えながら生き永らえる事となった騎士達の無念は、如何ほどのものであった事でしょう。その様子を見たヘイグの、実に愉しそうな笑い声が国中に響き渡りました。


  ◆


 それから、幾度も季節は巡りました。
 ある日、元ツィーシー騎国の王宮――メイシア王女が幽閉されている部屋に、一人の騎士がやってきました。青年ですが、まだ顔立ちが少々幼いかもしれません。年は十九か二十くらいでしょうか。引き締まった体躯に黒い瞳と髪を持ち、明け方の空のような色のマントを羽織っています。その身に纏った鎧と腰に帯びた銀の剣には使い込まれた跡があり、それだけでも彼が若いながらも腕の立つ騎士である事がわかります。
 彼は扉の前で数度ノックをすると、そのまま部屋の中へと足を踏み入れました。そして王女の前で跪き、低い声で言いました。
「お初にお目にかかります、姫様。本日より姫様の護衛役を仰せつかりました、ティグニール=ジン=クリアと申します。どうぞ、お見知り置きを」
「ティグ……ニール?」
 恐る恐る、呟くように王女は名を呼びました。すると、ティグニールは言います。
「親しい者の中には、ティグやニール、などと呼ぶ者もいます。お好きな名前でお呼びください」
 彼の言葉を聞くと、王女は少しの間だけ考えました。そして、軽くかぶりを振って少しだけ微笑むと言います。
「それでは、私はティグと呼ばせて頂きましょう。今後、よろしくお願い致しますね、ティグ」
「はっ!」
 王女の言葉に、ティグは畏まって返事をしました。その様子に、王女は少しだけ考えると問いました。
「ティグ……貴方はひょっとして、ツィーシー騎国の……?」
「……はい。元ツィーシー騎国領で生まれ、育ちました。幼い頃より剣を習い、国一番の騎士となるべく励んできた所存です」
 王女の問いに、ティグは淀む事無く答えました。そして、少しだけ考えると、更に言葉を続けます。
「僕は……ずっと姫様を守る護衛騎士になりたいと願っていました。ですが、今はマジュ魔国に雇われ、形ばかり姫様を護衛する役目……。これほど悔しい事はございません!」
 半ば叫ぶように、ティグは拳を握りしめました。そして、真剣な眼差しで王女を見つめ、言いました。
幼い頃から願っていた事を。騎士に憧れを抱いたその時から、いつか騎士になる事ができたらこうしよう、と考え続けていた事を。
「姫様、僕にお命じ下さい! 姫様を連れて、この王宮から逃げるように、と。僕が絶対に、姫様を守ってみせますから!」
 その言葉に王女は、今度は考える事無くかぶりを振りました。
「そのお気持ちはありがたく受け取っておきましょう、ティグ。ですが、私はここから逃げるわけには参りません。私がここから逃げ出せば、きっとマジュ魔国の王ヘイグは怒り狂い、今度こそツィーシー騎国の民を皆殺しにしてしまう事でしょう。貴方の家族も殺されてしまうかもしれないのですよ」
 言われて、ティグはグッ、と言葉を詰まらせました。しかし、大きく深呼吸をすると、感情を押し殺した声で問いました。
「姫様、貴方様は……民の為に、自らが永遠に犠牲になると……。そう仰っているのですか?」
 すると、王女はにっこりと微笑んで言いました。
「いいえ。私は……人が来るのを、待っているのです」
「……人?」
 王女の言葉に、ティグは思わず首を傾げました。そんな彼に、王女は更に言葉を続けます。
「ええ。その人はいつかきっと、私の元へと来てくれます。それまで待つと、約束しているのですよ」
 そう言って、王女はくすりと笑いました。その笑顔に、首をかしげたティグは、ふと何か思い付いた顔をすると、王女に言いました。
「なら、僕がその姫様の待ち人を探してきますよ!」
「え?」
 ティグの提案に、王女はきょとんとしました。たたみ掛けるように、ティグは言います。
「姫様は、その人がここに来ないからずっとここにいようと決意なさったんですよね? だったら、僕がその人をここに連れてきます!」
 ティグが意気込んでそう言うと、王女は苦笑しながら言いました。
「無理ですよ、ティグ。貴方は、その人の顔を知らないでしょう? それにその人は今、国内にいるのか、国外にいるのか……それすらわからないのですから。第一、見付けたとしてもどうやってここまで連れてくるのですか? この王宮には貴方以外の騎士や魔法騎士が山のようにいるのですよ?」
「けど、そんな事を言っていたら、その待ち人が姫様のところに来るなんて、一生できないじゃないですか!」
 必死の形相でティグが言うと、王女は静かにかぶりを振りました。そして、落ち着いた声で呟くように言います。
「心配しなくても、あの人なら大丈夫ですよ」
 そう言って、再びにっこりと笑いました。そして、ティグに続けて言います。
「さあ、随分と時間が経ってしまいました。貴方はマジュ魔国に雇われている身なのですから、あまり長い間私と話していると怒られてしまいますよ?」
 そう言われたら、ティグは退散せざるをえません。腑に落ちないままもう一度首をかしげ、そのまま部屋の外へと向かいました。
 するとそこには、大勢の魔法騎士達がティグの退室を待っていました。
「ティグニール=ジン=クリア、随分と長い謁見だったな」
 魔法騎士の一人が、皮肉めいた口調で言いました。その言葉の棘に気付いたティグは、思わず身構えます。すると、それに合わせたかのように魔法騎士達も各々腰の剣に手をやり、身構え始めました。
 これはただ事ではない――そう感じたティグは、眼だけを動かし、辺りの状況を確認し始めます。見ればティグはほぼ魔法騎士達に取り囲まれている状態ではありますが、その囲いには所々薄いところがあるようです。ティグは、魔法騎士達に気付かれぬよう、少しだけ足の向きをその囲いの薄い方へと向けました。
 魔法騎士は、剣の柄に手をかけたまま言葉を続けます。
「扉の外で話は聞かせてもらった。貴様、メイシア=リル=ソーデシア元王女の逃亡を企てたな?」
 先ほど王女に提案した脱出計画が、どうやら魔法騎士達に聞かれていたようです。ティグは元ツィーシー騎国領の出身ですからメイシア王女が逃亡する事は民や王女の為にも良い事であると思っていました。ですが、魔法騎士達はツィーシー騎国を滅ぼしたマジュ魔国の出身であり、マジュ魔国に忠誠を誓う身です。マジュ魔国を脅かす元王女の逃亡を許すはずがありません。
「……だとしたら?」
 これはもう、誤魔化す事は不可能だ――そう察したティグは開き直り、半ばやけになって魔法騎士達に問い掛けました。
「確かに僕は、メイシア姫殿下の逃亡を企てました。ですが、姫様ご本人はそれを拒んでおられます。僕の計画は、貴方達にバレる前に頓挫したわけです。そんな僕に、貴方達はどういった処罰を与えるつもりです?」
 不遜な態度をとるティグに、隊長らしい魔法騎士は頬をひくひくと痙攣させながら言いました。眉が、吊り上っています。
「死刑に決まっているだろう! 例え今回は頓挫していたとしても、貴様が今後同じ事を考えないとも限らない。次は、拒む元王女を無理やりにでも連れ出して逃亡する可能性とてある! そんな危険因子を野放しにしておけるか!」
 そう言って、魔法騎士隊長はスッと右手を高く掲げました。それが合図であったのか、周りの魔法騎士達は一斉にすらりと剣を抜き放ちます。
 二十もの刃が白く輝くのを視認すると、ティグはチッと軽く舌打ちをしました。そして自らもすらりと剣を抜くや否や、先ほど少しだけ向きを変えていた足に力を入れ、一気に駆け出したのです。ティグの顔の向きから最初に斬りかかるであろう方角を予測していた魔法騎士達は、突然のティグの方向転換に慌てふためきました。剣を構える者、自らに強化の魔法をかけようとする者。ティグはそれらに向かって一息に剣を薙ぎ払いました。一度に三人の魔法騎士が倒れます。それを横目で見ながら、ティグは穴のあいた防壁を一気に駆け抜けました。
 一息遅れで反応した魔法騎士達は、急いで剣に魔法をかけます。ある者は炎を宿らせ、ある者は雷を纏わせ、またある者は吹雪を舞わせました。ティグを追う魔法騎士がその剣を振るうと、炎の宿る剣からは炎が、雷を纏う剣からは雷が、吹雪が舞う剣からは氷の飛礫が吐き出され、全てがティグへと向かっていきます。ティグは上体を伏せ、時には飛び上がってそれらの攻撃を避け続けました。しかし、避ければ避けるほど逃げる足は遅くなり、次第に追手との距離が縮まっていきます。
「くそっ!」
 ティグは、毒づきながら走り続けました。顔は、前だけを見る事にしました。後からの攻撃を気にしていたら、追いつかれてしまうからです。左肩に激痛が走りました。肉が焼けるような臭いと血の臭いが混ざったような、嫌な臭いがします。どうやら、炎か雷の攻撃が当たってしまったようです。
 それでも、ティグは走り続けます。左肩の痛みはどんどん激しくなり、段々意識が朦朧としてきました。
 更に悪い事には、前方からわあわあと声が聞こえてきました。顔を上げて目を凝らしてみれば、大勢の魔法騎士達がティグの行く手に立ち塞がっています。どうやら、他の魔法騎士達にもティグの話が伝わってしまったようです。
 ティグは、廊下の角を曲がりました。ここで曲がっても、外に出る事はできません。寧ろ、王宮内に追い込まれてしまいます。ですが、前からも後ろからも敵が迫って来ている以上、なんとかして追手を撒く他に道はありません。ティグは細くて暗い廊下を、必死に走りました。そして、時々考えも無く角を曲がります。
 そうして、五回は角を曲がった頃でしょうか。ティグは遂に肩の痛みに耐えきれなくなり、壁にもたれて座り込んでしまいました。遠くから、魔法騎士達の声が聞こえてきます。捕まるのは、時間の問題です。
「ここまでか……」
 思わず、ティグは呟きました。その時です。
「お兄ちゃん、こっちに来やぁ」
 突然、ティグに声をかけてきた者があるのです。のんびりとした、それでいて高い少女の声でした。
「……誰だ?」
 ティグが警戒しながら問うと、声はのんびりとしたまま言います。
「良いから、早くこっちに来やぁ。このままだと捕まってまうが」
 警戒を解かないまま、ティグは辺りを見渡しました。すると、すぐ近くの壁にぽっかりと、大きな穴が空いています。穴の中は真っ暗で、中に誰かいるのかすら確認する事ができません。
 ティグは、更に辺りを見渡しました。今のところは、誰もこの場にはいません。しかし、遠くから聞こえてくる魔法騎士達の声は、確実にこちらに近付いてきています。
「……一か八か、だな」
 そう呟くと、ティグは穴の中に駆け込みました。すると、不思議な事に穴は徐々に縮んでいき、最後には穴のあった場所はただの壁となってしまいました。壁となった穴の前を、多くの魔法騎士達が通り過ぎていきます。誰一人として、穴の存在に気付く者はいません。後に魔法騎士達は、ティグがこの王宮から見事に消え失せた事に揃って首を傾げたという事です。


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  ◆


 穴の中は、外から見た通り真っ暗でした。それでも初めのうちは、外から入ってくる光でなんとか辺りを見る事はできました。しかし、穴は次第に小さくなり、最後には穴のあった場所は完全な壁と化してしまいました。こうなると、光は一切入ってきません。真の闇と化した穴の中で、ティグは悔しそうに呟きました。
「何だ、これは……。まさか、罠!?」
「たわけ! 既に袋の鼠になっているような奴を罠になんかかけすか」
「!? 誰だ! ……痛っ!」
 突然下の方から聞こえてきた声に、ティグは驚いて後ろに飛びのきました。勢いのあまり、壁に思い切り頭を打ち付けてしまいます。
「あー、あー。ちょい待ちゃあ。今明るくしてやろまい」
 全く慌てていない様子の声と共に、一瞬だけシュッという音がしました。すると、穴の中にほんのりと明るい火の玉が出現し、辺りの様子を目で確認できる程度に明るくなりました。
 ティグが明りの方を向くと、そこには一人の少女が立っていました。年の頃は、十五、六。薄紅色のローブを着たその少女の右手には細長い杖が握られていて、その杖先にはほのかな明かりが灯っています。どうやら、光源はこの少女の持つ杖のようです。ローブを羽織って杖を持っており、更にその杖が光っているという事は……恐らく、この少女は魔法使いなのでしょう。
「あらー、遠目でもカッコ良かったけど、近くで見ると更に男前だぎゃ。お兄ちゃん、名前は?」
 妙な訛りのある言葉で物おじせずに問う少女に、ティグは思わず後ずさりました。そこで、またも壁に頭を打ちつけます。
「痛っ!」
 ティグが思わず呻くと、少女は口元に指を立てました。そして、小さな声で「シーッ!」と鋭く言います。
「お兄ちゃん、声が大きい。自分が魔法騎士に追われてる身だって、わかっとんの?」
 少女の言葉に、ティグはハッと口元を手で押さえました。そして、元は穴だった壁に耳を当ててみます。外は、静かなものです。どうやら気付かれなかったのでしょう。
 自らの身の安全を確認し、ティグはやっと緊張を解きました。ホーッというため息とともに、筋肉が弛緩していくのがわかります。そして、ずるりと床に座り込むと、改めて少女の方を見ました。そして、少しだけ表情を緩めて言います。
「助けてくれて、ありがとう。僕は、ティグニール=ジン=クリア。……君は?」
 ティグの問いに、少女は胸を張って答えます。
「自分は、パルペット=セレ=ゼクセディオンだがや。聞いた事あらせんの? 世界一番の魔法使いって」
 少女――パルペットの名前を聞いて、ティグは少しだけ考えました。そして、何かに思い当ったのか、ぽん、と手を叩きます。
「パルペット……ああ、そう言えばどこかでちらっと聞いた事があるな。世界一番の強欲放蕩風来じゃじゃ馬魔法使い、って」
「その噂は作り話だで! 即刻頭から捨てやー、お兄ちゃん」
 ティグの記憶を渋面を作りながら即座に否定し、パルペットは言いました。
「自分は確かに、魔法使いをしながら商人もやっとる。けど、強欲と呼ばれるほどあくどい商売をした覚えは誓ってあらせんわ」
「……商人?」
 パルペットの言葉に、ティグは問い返しました。すると、パルペットはニッと笑って言います。
「そう! 魔法の力で作った魔法薬。これが案外良い値段で売れとるんだわ。特に今お勧めなのが、この傷薬。普通の魔法薬なら一瓶飲まなきゃ治らない傷が、この薬なら半分も飲めば治る。とってもお値打ちお買い得で、お勧めだがや」
 そう言って、パルペットはローブの内側から青い液体の入った瓶を取り出して見せました。そして、ふと何かに気付くと、ティグの方をまじまじと見詰めました。
「な……何?」
 少し引き気味にティグが問うと、パルペットは何故か嬉しそうに瓶を振りました。中で、青い液体がちゃぷんと揺れます。
「お兄ちゃん、肩に怪我をしとるりゃーす。どう? この薬、買やぁ?」
「……いや、大丈夫だから……」
 早速商売する気満々なパルペットから極力視線を逸らしつつ、ティグは言いました。これだけ自信満々で勧められると、逆に心配になってきます。それでなくても、相手は強欲で有名な魔法使いです。即決で買う気にはなれません。すると、パルペットは暫くの間考えます。そして、一旦瓶をローブの内側にしまったかと思うと、今度は別の瓶を取り出しました。先ほどよりもずっと小さい瓶で、中にはやはり青い液体が入っています。
「本当はこれはお得意さんにだけあげとるモンだがや。けど、お兄ちゃんがここで意地張って怪我を悪化させても後味が悪い。だから、今回は特別にサンプルをあげるよ(あーます)」
「……サンプル?」
 ティグが問い返すと、パルペットはこっくりと頷きました。そして、更に言います。
「今回だけだに? お代は良いから、早く飲みゃー」
 言われて、ティグは瓶を受け取りました。そして、瓶の中を見詰めます。中には、相変わらず青い液体がゆらゆらと揺れています。清々しいほどに青です。こんな瑠璃のような青色をした飲み物は、未だ嘗て見た事がありません。飲むのを暫く躊躇っていると、痺れを切らしたらしいパルペットが睨みながら言いました。
「仮にも騎士なら、覚悟を決めてさっさと飲みゃー! どうしても飲めんのなら、自分はもう知らん。さっさと死にゃーええ」
 そこまで言われたら、ティグも退く事はできません。彼は無言でパルペットから瓶を受け取ると、コルクの栓を抜きました。ぽん、という心地よい音が響きます。瓶の口から中を覗いてみました。やっぱり、空よりも青い液体が入っていて、ちゃぷんと揺れています。
 ティグは、大きく深呼吸をしました。思い切り空気を吸い込み、そして吐き出します。そして、腹から空気を出し切ったところで瓶を自らの口へと運びました。覚悟を決め、一息に中身を飲み干します。甘苦い液体が喉を一気に通り過ぎて行き、飲んだ後にはスッとした冷たい空気が感じられました。薄荷を齧った後よりもスッとしています。爽快を通り越して、空気が冷た過ぎるくらいです。
 胃の中までスースーしたような気分を味わうと、今度は体中が熱く火照り始めました。特に、傷を負った左肩が熱いようです。
「熱っ!」
 思わず、ティグは顔をしかめて左肩に手を遣りました。すると不思議な事に、手で直に触れているというのに、傷が全く痛みません。見れば、いつの間にやら傷は消え、肩にはただ血の跡が残っているだけとなっています。
「どうだ! これが薬の効果だがや」
「……凄いな……」
 息をのみ、ティグは呟きました。先ほどまで痛んで仕方の無かった肩が、今ではもうすっかり治っています。これなら、剣を握って戦う事も充分可能です。
 キツネにつままれたような顔をしながら左肩を回すティグを見ながら一頻り満足そうに頷いた後、パルペットは笑顔を絶やさないままティグに問いました。
「ところでお兄ちゃん、これからどうすんの?」
 妙に「ど」の部分を強く発音していて、訛りが際立っています。一瞬何を問われたのかわからなかったティグは、少しの間考えると口を開きました。
「……僕は、姫様を助けたい。それはきっと、僕だけじゃなくて元ツィーシー騎国領の民全ての願いだと思う」
 そう、ティグはきっぱりと言いました。しかし、すぐに顔を曇らせて言葉を続けます。
「けど、姫様は待っている人がいるから王宮から出ない、と言っている。……だから、僕はその人を探そうと思う」
「探すって……当てはあらすの?」
 パルペットが、首を傾げて問いました。それに対してティグは、ふるふると首を横に振ります。
「全然。姫様が待っているのが男なのか、女なのか……それすらわからないんだ。けど、何もしないよりはマシだと思う。まずは街に出て、昔の事を知っている人を探して話を聞いてみようと思うんだけど」
 ティグの答えに、パルペットは暫く顎に手をあてて「うーん……」と唸りました。そして暫くすると、納得したように勢い良く首を縦に振ります。
「よし、わかった! だったら、自分がお兄ちゃんにとっておきの人を紹介したるわ!」
「とっておきの人?」
 今度は、ティグが首を傾げました。すると、パルペットは胸を張って言います。
「そう! きっと、街の人達から虱潰しに話を聞くよりも成果があらすよ。何せその人は、件のツィーシー騎国が滅びたその瞬間、お姫さんの最も近くにいたって人だがや」
「姫様の最も近くに!? ……という事は、当時の護衛騎士の……!?」
 思わず出したティグの大声に気圧されつつも、パルペットは曖昧に笑って見せました。そして、ごほんと咳払いを一回すると、再び商人の目付きになってティグに言いました。
「その様子だと、行く気は満々だがね。だったら、話は早い。自分が案内したるわ。……自分の作った道具の説明をしつつ」
「……それが目的だろ、パルペット……」
 呆れたように、ティグが呟きました。すると、パルペットは照れたように後頭部を掻きながら言いました。
「聞くだけじゃなくて、買ってくれれば嬉しいがね。あ、嬉しいと言えば……」
 思い出したように、パルペットがぽん、と手を叩きました。
「……今度は何だよ……」
 身構えるようにティグが問うと、パルペットはニカッと笑いながら言いました。
「パルペットなんて堅苦しい呼び方せんと、パルって気軽に呼びゃー。その方が、自分も嬉しいがね。自分もお兄ちゃんの事、ティグ兄ちゃんって呼ぶに」
 言われて、ティグは虚を突かれたように固まりました。そして、暫く硬直した後にぷっ、と吹き出しました。軽い笑いを堪えながら、ティグはパルに言います。
「わかったよ。それじゃあ、案内を頼むよ、パル。けど、商品の説明はまた今度にしてほしいな」
 すると、パルは嬉しそうにその場で飛び上がりました。そして、そのままスキップでも始めそうな勢いで歩き出します。
「任せときゃー。すぐにフィル爺ちゃんの処へ案内したるに。しっかり自分に付いて来てちょーよ」
 そう言って、穴の奥へとずんずん歩き始めます。思わぬパルの足の速さに、ティグは慌てて後を追いました。しかし、数歩もいかないうちにパルは足を止めました。そして、にっこりと笑いながら振り向くと、ティグに言いました。
「けど、商品の説明はちゃんと聞いてちょーよ」


  ◆


 辺り一面、岩と砂礫ばかりでした。視界の中に草木といえる物はほとんど見当たらず、川や湖のような水気も感じられません。両側面は険しい崖が聳えています。この場所はいわゆる、切り通しという奴のようです。
 その岩壁に寄りかかるように、一人の老人が立っていました。黒ずんだ鎧の上に黒く汚れたマントを纏ったその老人は、腰に銀色の美しい――しかし妙に時代を感じさせるように汚れた剣を佩いています。首の後ろで一括りにした白髪の多い髪の毛は、遠目に見ると灰色に見えます。肌は褐色に焼け、眼元・口元の深い皺は険しい目つきを和らげるのに一役買っています。相当の年――恐らく七十は超えているであるだろうにピンと伸びた背筋、未だ衰えているように見えぬ筋肉は、老人がただの老人でない事を物語っています。
 老人の耳が、ぴくりと動きました。体の向きを変えず、首も動かさずに老人は視線だけ動かしました。
 次の瞬間、ガゴゴゴゴ……という音と共に、一つの巨岩が動き始めました。岩が動くと同時に、その向こうから暗い穴が姿を現し始めます。老人は、特に慌てるでもなく身構えるでもなく、その様子を見つめ続けています。やがて穴は大人の男が二人は通れるほどの大きさになり、そこで岩の動きは止まりました。
 続いて、穴の向こうから元気の良い声が聞こえてきます。
「これなんか、特におすすめだがや。これを飲むと一時的に魔力が大幅に増えて、誰でも一回だけ魔法が使えるようにならすよ」
「けどさ、魔力が増えただけじゃ魔法なんか使えないだろ? 確かに使えたら便利だけどさ……」
「だから、これと一緒に買おまい。この本に載ってる魔法は、どれも初歩中の初歩で簡単だがね。やる気と魔力さえあれば、誰でも使える魔法だぎゃー」
「……ねぇ、パル。この会話、もう五回目くらいな気がするんだけど……」
「だから、ティグ兄ちゃんがこの本と薬のセットを買ってくれりゃー、この会話もすぐに終わるがね……あっ!」
 声の主――パルが、老人の姿に気付いたようです。パルは嬉しそうに顔を綻ばせると、老人に向かって駆け出しました。
「フィル爺ちゃん!」
 パルが駆け寄ってくると、フィルと呼ばれた老人は険しい顔つきのまま、パルの頭を軽くコツンと殴りました。
「痛っ! フィル爺ちゃん、痛いがや。何しやーすの?」
 パルが非難めいた目でフィルを見ます。すると、フィルは低く張りのある声で言いました。
「騒ぎ過ぎじゃぞ、パルペット。敵に見付かったらどうするつもりじゃ?」
 静かに淡々と問うフィルに、パルはぷーっと頬を膨らませました。そして、口を尖らせて言います。
「見付かったら、自分の魔法でどかんと一発やってまえばええ。それに、今回は騎士のティグ兄ちゃんも一緒だで。接近戦になっても大丈夫だがね」
「……ティグ?」
 そこでフィルは、初めてティグの方を見ました。その鋭い視線に見詰められ、ティグは思わず後ずさります。
「あ、あの……初めまして。僕はティグニール=ジン=クリアと言います。あの……あなたは?」
「……フィル、と呼ばれておる」
 フィルは、静かにそれだけ呟きました。会話が続きません。ティグは、困ったようにパルを見ました。ですが、パルはただニコニコとしているだけです。どうやらパルは会話で助けてくれる気はないようだと悟ったティグは、恐る恐る会話を続行しました。
「あの……パルが言うには、貴方はツィーシー騎国が滅びた時、姫様の最も近くにいたと……」
「いかにも」
「…………」
 一言で会話が終わってしまいました。ですが、ティグは挫けません。なんとか会話を続けようと、言葉を探します。
「僕は、つい先ほどまで姫様の護衛騎士として姫様の御前にいました。それで、姫様に言ったんです。ここから逃げましょう、って」
 その言葉に、フィルの眉がぴくりと動きました。それに気付かないまま、ティグは言葉を続けます。
「けど、姫様は逃げるわけにはいかない、と……そう仰りました。待っている人がいるから、と……」
 つい先ほどの出来事が、まるで遠い昔の事であるように思われます。ティグは、その一瞬一瞬を思い出しながら喋りました。喋るうちに、段々気持が高ぶっていくのがわかります。
「けど、僕は姫様をお助けしたいんです。……騎士となって、姫様を守る事が僕の夢でした。姫様をお助けしたい。そして、姫様に笑って頂きたい! ……けど、それは僕一人じゃ駄目なんです! 姫様が待っていらっしゃる、その誰かがいなければ……」
 そこまで言って、ティグは一度言葉を切りました。そして、フィルの方を見ます。
「だからフィルさん……貴方に教えて欲しいんです! 姫様が待っていらっしゃるのが誰なのか、どこにいるのか……。姫様の近くにいた貴方なら、ご存じなのでは!?」
 そこで、ティグは口を閉じました。フィルの目を見詰め、フィルの言葉を待っています。すると、フィルは少しだけ寂しそうな目をして、呟きました。
「……そうか。姫様は、まだ待っていらっしゃるのじゃな……」
「……フィルさん?」
 フィルの言葉に、ティグは首を傾げました。フィルは、体をティグの方に向けると少しだけ先ほどよりも優しい顔になり、言いました。
「ティグニール……と言ったな?」
「え? あ……はい」
 いきなり名を呼ばれ、ティグは少しだけ驚きながら返事をしました。そんな彼に、フィルは言葉を続けます。
「残念ながら、私は君の質問に答える事はできん。だがな、君にいくつか忠告する事はできる」
「……忠告、ですか?」
 ティグが怪訝そうな顔をして言うと、フィルは頷きました。そして、再び顔を険しくして言います。
「まず君には注意力が足りな過ぎる。……君はパルペットと私の様子を見て私が味方だと判断し、私に姫様の話をした……そうじゃな?」
「……そうです」
 ティグは、フィルの意図がつかめず、ただこくりと頷いた。
「それがいかん。もし私がパルペットと仲が良いだけでツィーシー騎国とは全く関係の無い人間だったらどうするつもりじゃ? 今はマジュ魔国が勢力を伸ばしており、大抵の国はマジュ魔国……しいては、マジュ魔国の王ヘイグを恐れておる。ツィーシー騎国以外の人間にメイシア姫様の話をすればそれだけでヘイグに通報されてしまうじゃろう」
「……あ……」
 フィルの言葉に、思わずティグは自分の口を押さえました。フィルは、たたみ掛けるように言います。
「そして、姫様をお助けする話じゃ。私とて、昔は姫様のお傍にいた身じゃ。君の気持はよくわかる。姫様をお助けしたいし、できる事ならば姫様の笑顔を見たいと思っておる。じゃがな……。例え待ち人を見付け、連れていく事ができたとしても……姫様は素直に喜ぶまい……」
「何故ですか!?」
 ティグは叫びました。フィルの言葉に納得がいかない……そんな顔です。そんなティグに、フィルは寂しそうに言いました。
「忘れたのか? 姫様には、ヘイグによって不老不死の呪いがかかっておる。その呪いを解かぬ限り、姫様は永遠に死なぬし、歳をとる事も無い……」
「だから? だから何だって言うんですか!? なんでそれが、姫様が喜ばない理由になると……」
「まだわからぬか!」
 感情的になったティグに、フィルは一喝しました。大音声にティグは勿論、傍で聞いていたパルまでもがびくっとしました。
「よく考えてみろ。姫様は歳をとる事はない……だが、姫様以外の人間は歳を取り、やがて死ぬ。それは君とて例外ではない。姫様は変わらぬのに、周りはどんどん年老いて死んでゆく……それを姫様が喜ぶと思うておるのか!?」
「! それは……」
 ティグが言い澱むと、フィルはティグに背を向けました。そして、暗い面持ちで言葉を紡ぎます。
「姫様を真にお助けするには、姫様の呪いを解かねばならん」
「姫様の呪いを……どうやって、ですか!?」
 ティグはがばりと顔を上げ、問いました。すると、横で少し暇そうに二人のやり取りを見ていたパルが口を挟みます。
「言うだけだったら簡単な事だがね。お姫さんに呪いをかけたのはマジュ魔国の王、ヘイグ。だったら、ヘイグを倒せばお姫さんの呪いは解ける。そういう理屈になるがね」
「ヘイグを……倒す……」
 パルの言葉を受け、ティグの目に力強い光のような物が宿りました。今にもヘイグを倒しに行こうと駆け出しそうです。そんなティグに、フィルは鋭く言います。
「やめておけ。今はまだ、その時ではない」
 その言葉に、ティグは激高しました。思わず声を荒げ、叫びます。
「なら、どうしろって言うんです!? ヘイグを倒さなければ姫様の呪いは解けない……。姫様の呪いが解けなければ、姫様を本当にお助けする事はできない……。なのにヘイグを倒してはいけない……。それじゃあ、姫様をお助けする事は永遠に叶わないじゃないですか!」
 憤慨するティグに、フィルはあくまで淡々と言いました。
「倒すな、とは言っていない。ただ、今はまだその時ではないと言っているだけだ」
「じゃあ、いつなら良いんです!?」
 苛々と言葉をぶつけるティグに、フィルはふぅ、とため息をつきました。そして、子どもを諭すようにゆっくりと言葉を発します。
「姫様の呪いは、確かに私や君……ツィーシー騎国の民や、姫様自身からしたらこれ以上ないほど残酷な呪いだ。姫様は、自分だけが変わらぬまま周りが年老いて死んでゆく。民は、そんな姫様をお助けする事ができないまま年老いて死んでゆくしかない」
「そうです! ですから、一刻も早く姫様の呪いを解かないと……」
「だが、栄華を極めた者からすれば、それは呪いでも何でもない」
「……え?」
 フィルの言葉に、ティグはふ、と冷静になりました。フィルの言葉の意味を飲み込もうと、頭を回転させます。すると、その答えを待たぬまま、フィルは言葉を続けました。
「不老不死は、太古の昔より栄華を極めた為政者達が欲してきた。ツィーシー騎国を滅ぼし近隣諸国を抑えたマジュ魔国の王であるヘイグが、他人を不老不死にしておきながら自らを不老不死にしないわけがあろうか」
「……じゃあ、まさか……!」
 フィルの言葉に、ティグが目を見開きました。フィルが、無言で頷きます。
「マジュ魔国の王、魔術師ヘイグは不老不死。それも、お姫さんにかけた奴よりも何倍も強い呪いがかかっとる。ちょっとやそっとじゃ、倒すどころか傷つける事すらできにゃーわ」
 パルが、渋面をこしらえて言いました。ティグは、呆然として呟きます。
「そんな……ヘイグが、不老不死……? それじゃあ、何年待っても、どれだけ修行をしても、奴を倒す事なんかできないじゃないか……。けど、だったら姫様の呪いは……」
 絶望したようにブツブツと呟き、悔しそうに歯を食いしばります。しかしティグは、ギュッと拳を握り締めると顔を上げ、「いや……」と言いました。その声に、フィルとパルがティグを見ます。
「だからって、希望が全て断たれたわけじゃない……。不老不死と言ったって、元は普通の人間なんだ。身体が鋼鉄でできているわけじゃない……。歳を取らなくて死なないって事は、ただ単に自然死をする事が無いってだけの事じゃないのか? ……なら、懐に飛び込んで、一息に首を切り落とす事ができれば……」
 物騒な言葉を続けるティグに、フィルは顔をしかめました。そして、険しい声でティグに言います。
「逸るのはよせ、ティグニール。ヘイグを倒すというのは、それほど単純な事ではないぞ」
「じゃあ、いつまで待てば良いんですか!? 十年? 二十年!? その時ではないとか、逸るのはよせとか……そんな事を言うなら、教えてくださいよ! ヘイグを倒すにはどうすれば良いのか! それには一体どれだけの時間がかかるのか!」
 それだけ叫ぶと、ティグはくるりとフィルに背を向け、歩きだしました。
「どこへ行く?」
 フィルが問うと、ティグは顔だけフィルに向けました。そして、棘を含んだ声で言います。
「マジュ魔国ですよ。ヘイグを倒しに行くんです! そして、姫様の呪いを解いて……姫様をお助けします」
 それだけ言うとティグは再び前を向き、今度は振り返る事無く歩き続けました。その姿を見て、フィルは呆れたように溜息をつきます。そして、傍らで事の成り行きを見守っていたパルに言いました。
「どうやら、とんでもなく短気で熱血な奴を拾ってきたようじゃな、パルペット」
「うん。自分も、ティグ兄ちゃんがあそこまで気が短いとは思わなかったがね。けど、なんか前に聞いたフィル爺ちゃんの若い頃に似とる気もするがね」
 その言葉に、フィルは目を瞬かせると、ふっ、と優しく微笑みました。そして、すぐに気を引き締めるとパルに向かって言いました。
「このままみすみす死なせてしまうわけにもいくまい。パルペット、ティグニールを追って、彼を手助けしてやれ」
 言われて、パルはにやりと笑って問います。
「手助けって、フィル爺ちゃんはティグ兄ちゃんが、このままヘイグを倒せると思っとんの?」
 すると、フィルはまたも顔を険しくしてパルに言いました。
「馬鹿を言うでないわ。現時点でそれは無理だという事は、何度も話したはずじゃろう? 手助けとは、ヘイグを倒す手助けではない。彼が逃げる手助けじゃ」
「わかったがね。ところでフィル爺ちゃん、ティグ兄ちゃんと自分が上手く逃げおおせたら、何処に行きゃーええ?」
 パルの問いに、フィルは暫く腕を組んで考えました。そして、東の空を見ながら言います。
「マジュ魔国の東に、町がある。大きくはないが、そこそこ栄えていて、賑やかな町じゃ。私はまず、そこへ行こうと思うておる」
 そう聞いて、パルはうーん、と頭を捻りました。やがて、記憶の中のある情報に行き着いたのか、ぽん、と手を打ちます。
「ああ、あの大きな川のほとりにある町きゃあ?」
 パルの言葉に、フィルは頷きます。
「そうじゃ。私はそこで一週間、お前達を待つ。一週間待っても来なかったら先に行くからな」
「わかったがね。けど、東の川のほとりにあるあの町に行くって事は……フィル爺ちゃん、遂に覚悟を決めたんきゃあ?」
 パルが、頷きながらフィルに問いました。その問いに、フィルは遠くを見ながら呟きます。
「覚悟を決めた……そうじゃな。情報も、武器も……。必要な条件は皆揃った。あとは私の決断次第じゃったというわけか……」
「……フィル爺ちゃん……」
 フィルの遠くを見る目に、パルが心配そうに声をかけました。その声に我に返ったフィルは、パルを急き立てるように言います。
「ほれ、早く行かぬか。ティグニールの姿は、とうに見えなくなっておるぞ」
「へっ? ……ああっ! ティグ兄ちゃん、歩くの早過ぎだがや!」
 そう言って、パルは慌てて走り出しました。その後姿を見送りながら、フィルはそっと呟きました。
「姫様……長い事お待たせしてしまい、申し訳ございません……。今度こそ、お救い申し上げます。……今度こそ……!」
 そして彼は、東の空を仰ぎ見ました。そこには黒い雲が漂っています。遠雷の音が聞こえてきました。

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