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「13月の狩人」
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「十三月の狩人? 何それ?」
 井戸の水を汲みながら、テレーゼは傍らで剣の素振りをする少年に問い掛けた。少年からは狼のような耳と尻尾が生えており、彼が普通の人間ではない事がわかる。獣人、なのだろう。
 彼はテレーゼからの質問に答える事無く、夢中になって剣を振り回している。横に払い、見えない敵を想定して斬り上げ、飛び跳ねて振り下ろし、再び横に払って……そして剣は彼の手からすっぽ抜けた。
「あ」
 ヒュオン、という風を切る音がして、剣はまっすぐに飛ぶ。そして剣は、テレーゼが水を汲んでいた井戸の井戸縄を斬り裂いた。
 自由を得た釣瓶は中に湛えた水の重みも相まって、あっという間に井戸の奥底へと落ちていく。桶から飛んだ飛沫は、紅塗月も終わりに差し迫った今の空気に冷やされて非常に冷たい。思わず手で顔を覆ったのとほぼ同時に、バシャン、という水音が遠くから聞こえた。
「……ちょっと、フォルカー!」
 形の良い眉をキッと吊り上げ、テレーゼは少年――フォルカーを睨み付けた。井戸脇の柱に突き刺さった剣を抜き取ると、右手で左手にパシパシと叩き付けながらフォルカーに詰め寄る。
「どうしてくれるの? これじゃあ水汲みできないじゃない! それと、質問に答えて! 自分で話振っておいて、勝手に終わらないでよ!」
「悪い悪い! ……えーっと、何の話だったっけ?」
 全然反省していない様子のフォルカーに、押し付けるように剣を返しながら、テレーゼは「もう!」と吐き出すように叫んだ。
「だから、十三月の狩人って何? って話!」
 剣を鞘に収めながら、フォルカーは「あぁ」と思い出した様子で頷いた。
「そうそう、その話な。十三月の狩人。……うん、こないだ、じいちゃんから聞いたんだけどよ」
 そう言って、フォルカーは語り出した。彼の祖父から聞いた、この世には有り得ぬ十三月に現れる狩人の話を。


  ◆


 この世界の一年は、十二の月によって成り立っている。十二の月を味気無く数字で呼ぶ者もいるが、多くの人は違う。その月の特色から生み出された名を持って、その月を呼ぶ。

 一の月。新しい年を神々が祝福し、天上から白い花が吹雪のように降ってくる。故に、花降月(はなふるづき)という。
 二の月。春の気配に、そこかしこで鳴いているような、雪融けの音が聞こえ始める。故に、雪鳴月(ゆきなきづき)という。
 三の月。冬眠していた虫達が目を覚まし、這い出る事で土が起こる。故に、土起月(つちおこりづき)という。
 四の月。暖かな空気が辺りに満ち、陽の光に浸かる事で安らぎを得る。故に、陽浸月(ひづかりづき)という。
 五の月。初夏の訪れを告げる風に、木々の葉が爽やかに騒ぎ始める。故に、葉騒月(はさわぎづき)という。
 六の月。呑める程の雨が降り、生きとし生ける全ての者に潤いを与える。故に、雨呑月(あめのみづき)という。
 七の月。夜空に星々が輝き、飾り付けたかのように美しくなる。故に、星飾月(ほしかざりづき)という。
 八の月。巨大な雲が湧き立ち、人々は夏に秘められた力強さを実感する。故に、雲立月(くもたちづき)という。
 九の月。次第に陽の光が弱まり始め、長々とした夜が育ち始める。故に、夜育月(よそだちづき)という。
 十の月。秋の空は清々しく晴れ渡り、澄んだ青色が人々を魅了する。故に、空澄月(そらすみづき)という。
 十一の月。木々の葉は色付き、夕焼けが里を染め、世界は紅を塗ったようになる。故に、紅塗月(べにぬりづき)という。
 十二の月。一年を最後まで終えた事を神々が祝福し、氷が独りでに美しい音を響かせる。故に、氷響月(ひひびきづき)という。

 これで、一年一巡り。一つの月が三十二日で、一年は三百八十四日。これ以上にも、これ以下にもなる事は無い。
 だが、実は誰も知らぬ間に訪れる、十三番目の月があるのだと。そう言う者がいる。
 それがいつ、どのようなタイミングで訪れるのか、はっきりと説明できる者は無い。十三月というぐらいなのだから、氷響月の後に来るのだろうとは言われるが、氷響月の三十二日が終わった後に来るのは、必ず花降月の一日だ。その目で十三月の訪れを確認し、証明した者はいない。
 その、本当に存在するかどうかもわからない十三月が訪れた時。一人の狩人が現れるのだと、訳知り顔で言う者がある。
 新月の夜空のように黒い衣装を纏い、顔も影に支配されたかの如く黒くて表情が窺えない。黒塗りの弓と、黒羽の矢を携え、獲物として選ばれた人間を狙い、追い続ける。
 怪談話のようなその存在を、彼が現れるという時に因んで、十三月の狩人と呼ぶ。
 十三月の狩人に狙われた者は、花降月を無事に迎えるため、逃げ続けなければならない。逃げ切れなければ、命を落としてしまう。
 逆に、逃げ切る事ができれば何か良い事があるという話もあるのだそうだ。しかし、どのような良い事があるのかは、定かではない。
 何が起こるのか、実在する存在なのか。何もわからないまま話は独り歩きし、そして次第に消えていった。この話が広まったのは、今から何十年も前。今となっては、老齢の者達が、子どもの頃を懐かしんで語る事がある、という程度の物になってしまった。
 それが、十三月の狩人という話の実態である。


  ◆


「ふぅん……」
 そう呟くと、テレーゼはニヤッと笑った。そして、少し意地悪気な笑みを浮かべて、フォルカーを見る。
「フォルカー。その話、おじいちゃんに聞いたんだっけ? 今度は何をやらかしたわけ?」
 そう言うと、フォルカーの顔が一気に引き攣る。「げっ」という呟きが漏れた。
「何でわかったんだよ? じいちゃんに説教された時にこの話を聞いたって……」
「大人の常套手段じゃない。子どもが悪い事したり、いつまで経っても成長が無かったりするとオバケの話を聞かせて、「このままだとオバケに殺されちゃうぞー」って言うのなんか」
 まぁ、私は子どもじゃないから、そんな話は効かないけど。そう言うテレーゼに、フォルカーは「そうか?」と首を傾げる。
「悪い事した子どもや、成長の無い奴が十三月の狩人に狙われるって言うならさー、テレーゼだって対象になるんじゃねぇの? 魔法の修業を始めて、何年経ったよ?」
 言われた途端に、テレーゼの顔が悪魔か何かを思わせるほど凶悪に歪んだ。痛いところを突かれたという顔だ。
 ……この世界は、ぐるりと大きな山や海に囲まれ、更にそれを五つの地域に分類する事ができる。
 湿地帯が多く、水生の魔族や精霊達が多く住まう、北の霊原。
 穏やかな風が吹き、作物や鉱物を豊富に取得できるため、力弱き人々でも安心して暮らせる東の沃野。
 太陽がぎらつき、常に焼け付くような空気が満ちているためにモンスター以外何者も住む事ができない南の砂漠。
 気候は東の沃野に似ているもののモンスターの出現率が高く、多種多様な薬草や霊石を取得できる森があるために多くの魔女、魔族、妖精が住まう、西の谷。
 そして、東西南北四つの地域の中央に位置し、多種族の交流、交易の場となっている中央の街。
 この中の、東の沃野から、テレーゼは西の谷にやってきた。ただ黙々と作物を作り続ける人生は送りたくないという理由から、西の谷一番の魔女、ギーゼラの弟子となったのだ。
 弟子となり、魔法を学んで、何になりたいのかはわからない。冒険者と仲間になって旅をするも良し、故郷に戻ってたまに現れるモンスターから村を守ってやるも良し。中央の街へ行って、学術機関や研究所に勤めるも良し。魔法を上手く使えるようになれば、それだけ将来の選択肢は増える。
 だが、十四の時にギーゼラに弟子入りしてからもうすぐ三年。テレーゼは、それだけの年数修行した割には、魔女としてパッとしない。
 理由ははっきりしている。魔法を使うために必要な力……魔力が足りないのだ。
 体力が無いわけではなく、性格も根性が無いわけではない。魔力を増やすためのトレーニングは、一日たりとも欠かしていない。
 しかし、どうにもその魔力を増やすトレーニングのやり方が下手なのか、魔力が一向に増えない。魔力が増えないので、高度な魔法の修業に挑戦する事ができない。高度な魔法が使えないとなると、魔女としてはパッとしない。
「テレーゼはさぁ、進む道を選び間違えたんじゃねぇの? 魔女じゃなくって戦士を目指しとけば、案外良い線いったんじゃねぇか?」
「そう言うフォルカーこそ、剣士よりも魔石採掘人とかを目指す方が良いんじゃないの? 力と、魔力を嗅ぎ分ける鼻は持ってるけど、怖いくらいドジだし。戦ってる時、さっきみたいに剣がすっぽ抜けたりしたら、命が無いわよ?」
「う……やっぱり?」
 フォルカーは剣に視線を遣ると、ため息を吐いた。どうやらこちらも、己の欠点を自覚してはいるらしい。
 そして二人で揃って唸り、次第に顔が曇っていく。
「……俺達、狙われると思うか? 十三月の狩人に」
「怪談話でしょ? 変な事言わないでよ。……けど、もし怪談じゃなかったら……」
 話しているうちに、怖くなってきたらしい。二人とも思わず自分自身を抱き、ぶるりと震えた。
「……何かこう……他に無ぇのかな? 十三月の狩人の話。もっと情報がありゃ、安心できるかもしれねぇんだけど……」
「なら……」
 呟き、テレーゼはハッと顔を上げた。「そうだ!」と少し大きな声で言う。
「カミルのところに行ってみない? カミルなら、十三月の狩人の話も聞いた事があるかも!」
 そう言うと、フォルカーも「おお!」と顔を輝かせた。
「そうだな! あいつ、何でも知ってるし! それに、もし知らなかったとしても……あいつも、条件で言えば十三月の狩人に狙われそうだもんな。一緒に怖がる奴は、多い方が良いよな」
 少し意地悪気な笑みを浮かべて言うフォルカーに、テレーゼも頷いた。怖さを共有する者は、一人でも多い方が良い。そしてできれば、己よりも怖がってくれれば良い。そうすれば、己は怖さが半減するかもしれないから。
 そうして、自分達が落ち着くための生贄とされるかもしれない哀れな友人に会うべく、二人は中央の街がある方角へと足を向けた。


  ◆


 赤レンガの建物が立ち並び、露天商達が張りのある声で客を呼ぶ。
 中央の街の賑やかな大通りを抜け、テレーゼとフォルカーは市街地の中心から少し外れた場所にある、こげ茶色を基調とした建物の前に立った。住居を兼ねた店舗で、扉にはドアベル、扉の前には看板。看板には、「魔道具屋」とシンプルに書かれている。
 テレーゼが迷い無くドアノブに手をかけ、扉を開いた。カランコロン、という軽快なドアベルの音が響いて、奥から「はい」という可愛らしいがどこか大人びた声が聞こえてくる。
 声が聞こえてから数秒。きらきらと光る、小さな何かが飛んできた。光るそれは、よく見れば人の形をしている。テレーゼの肩に座れそうなほど小さくて、黄緑色のドレスを着ていて、背中からは透明な羽根が生えている。妖精だ。
 妖精の姿に驚く事無く、テレーゼとフォルカーはニコリと笑った。
「こんにちは、レオノーラ。カミルはいる?」
 すると、妖精――レオノーラは「あら」と嬉しそうに呟き、「はい」と頷いた。
「いらっしゃいますわ。すぐにお呼び致しますわね」
 そう言って、レオノーラは店の奥へと体をくるりと回した。
「カミル=ジーゲル様! テレーゼ=アーベントロート様とフォルカー=バルヒェット様がご来店なさいましたわ!」
 レオノーラが呼ぶと、奥から「すぐ行くよ」という声が聞こえてくる。そして、本当にすぐに、一人の少年が姿を現した。優しそうな目が笑っている。二人が訪ねてきた目的の人物、カミルだ。
「いらっしゃい、テレーゼ、フォルカー。今日はどうしたの? また何か、壊した?」
「フォルカーと一緒にしないで頂戴!」
「今日は壊してねぇよ! 井戸縄は切っちまったけど!」
「フォルカー、余計な事は言わないの! ……って、そう言えばフォルカー、井戸縄直さないまま来ちゃったんじゃ……」
 テレーゼの言葉に、フォルカーは「あ」と呟き、次いで「やべっ!」と叫んだ。今頃、井戸を使いたい人が困っているか、怒っているかしているかもしれない。帰ったら、誰かしらからの説教は免れないだろう。連帯責任で、テレーゼも怒られるかもしれない。
「何でフォルカーのドジに、私まで付き合って怒られなきゃならないのよ!」
「わ、悪ぃ……」
「悪ぃじゃないわよ! どうせ本心では反省してないでしょ!? 反省無き謝罪は不要! 態度で示しなさい、態度で!」
 テレーゼの剣幕にフォルカーがしゅんと項垂れ、その様子にカミルが苦笑する。
「相変わらずだね。それで、何かを壊して修理しに来たんじゃないなら、どうしたの?」
 問われて、テレーゼは「そうそう」と頷いた。
「カミルに訊きたい事があって」
「訊きたい事?」
 不思議そうな顔をするカミルに、テレーゼは再び頷いた。
「カミル、十三月の狩人、って聞いた事ある?」
「十三月の狩人?」
 一瞬だけきょとんとして、カミルはすぐに「あぁ」と心得たように頷く。
「あれだよね? 誰にも訪れないのに、誰かに訪れる、謎の十三月。その時に現れて、獲物と定めた人を追いかけ回すっていう怪談の……」
 そうそう、と頷いてフォルカーが楽しげに言う。
「テレーゼとその話になってさ。そのうち、どんな奴が十三月の狩人に狙われるんだろーって、テレーゼが怖がりだしたからさぁ」
「ちょっと、フォルカーだって怖がってたでしょ!」
 目を剥くテレーゼに、フォルカーは「そうだっけ?」と頭を掻く。どうやら、本当に忘れている様子だ。テレーゼはため息を吐き、カミルに向き直った。
「そんなわけで、どんな人が十三月の狩人に狙われるのか気になっちゃって。それで、カミルなら物知りだから、知ってるかも、って」
「うん、それにもしかしたら、カミルも一緒に怖がってくれるかもしれねぇしな。カミルの方が怖がってりゃ、テレーゼはあんまり怖くなくなるかもしれねぇって」
「それを言ったのはフォルカーでしょ!」
 フォルカーは「たはは……」と苦笑いをしている。どうやら、今度は覚えていながらわざとテレーゼのせいにしたようだ。
 カミルはと言えば、「酷いなぁ」と言いながらも楽しそうに笑っている。それから、少しだけ申し訳無さそうな顔をした。
「残念だけど、僕もそれほど詳しい事は知らないんだ。僕よりも、レオノーラの方が詳しいかも」
 そう言って、傍らで楽しそうに話を聞いていたレオノーラに視線を遣る。レオノーラはにっこりと美しく笑い、頷いた。
「えぇ、十三月の狩人の事でしたら、カミル=ジーゲル様よりは少々多くの事を存じ上げていると、自信を持ってお答え致しますわ。そして、フォルカー=バルヒェット様やテレーゼ=アーベントロート様がお話しなさらずとも、既にカミル=ジーゲル様が十三月の狩人を恐れておいでだという事も」
「ちょ……レオノーラ!」
 顔を赤くするカミルに、レオノーラはころころと笑う。
「良いではありませんか。恐怖は、危機を回避し、成長するために必要な感情ですもの。怖がりで、子ども騙しの怪談にも恐怖を抱いてしまうカミル=ジーゲル様は、きっと将来、目覚ましく成長なさいますわ」
 レオノーラはフォローしているつもりなのだろうが、カミルの顔は更に赤くなっている。その様子に、レオノーラはまたころころと笑う。
「それで……十三月の狩人のお話しですわね? その存在は、私のような妖精族の間にも伝わっておりますの。獲物として狙うのは、日々の鍛練を怠り成長が見込めない者。十三月の間に何人を狙うのかは存じ上げませんが、どうやら大雑把な基準を元に狩人がその時の気分で選んでいると聞いた事がございますわ。全身が黒く、感情を伺えない存在。狩人の名にふさわしく、その黒い強弓の精度は百発百中。動かぬ相手であれば、貫かぬ事はございません。どこにいても必ず獲物を見付け出し、どこまでも追ってくる。相手が誰であろうと容赦せず、獲物を仕留める為であれば、どんな手も辞さない……あら、どうかなさいまして?」
 テレーゼ達の顔が青褪めている事に気付いて、レオノーラは首を傾げた。
「……レオノーラの話の通りだとすると、私達……」
「ばっちり、十三月の狩人に狙われる条件満たしてんじゃねぇか……」
 鍛錬を怠っているのかどうかはともかく、いつまで経っても魔力が増えず、魔法が上達しない魔女。
 ドジで、周りに気を配れない剣士。
 少なくとも、狩人が獲物として定める条件は満たしている。そして、それ以外に満たすべき条件は無く、狩人はその時の気分で獲物を選ぶと言う。テレーゼ達が獲物に選ばれないための要素は見当たらず、後は運に頼るのみ、だ。
 顔を引き攣らせてうーうーと呻く二人に、カミルは苦笑する。そして、「そうだ」と何かを思い出したように言った。
「十三月の狩人に狙われなくなる方法とかは残念ながら知らないんだけど、自分が狙われているんだとすぐにわかる方法なら、あるよ」
 その言葉に、テレーゼとフォルカーは揃ってガバリと顔を上げ、カミルに詰め寄った。
「カミル! それ本当!?」
「流石カミル! やっぱり、何でも知ってるんだな!」
 瞳を輝かせる二人に、カミルは少し照れたように俯いた。そして、「うん、あのね……」と、どこか緊張した面持ちで言う。
「氷響月になる前に、枕元に、氷響月と花降月の暦を置いておくと良いらしいよ。それで、氷響月の三十二日になったら、用済みになった氷響月の暦を捨ててしまうんだって」
「暦を……」
「捨てる?」
 不思議そうに首を傾げる二人に、カミルは頷く。
「うん。氷響月の三十二日のうちなら、いつでも良いんだ。とにかく、寝る前……花降月になる前に、枕元には花降月の暦だけ、って状態にしておくと良いんだって」
「花降月になる前? 夜、花降月になるまで起きてて、それから氷響月の暦を捨てて寝るんじゃ駄目なのか?」
 首を傾げたまま問うフォルカーに、カミルは「駄目なんだって」と言う。
「僕も、なんでそれが駄目なのかまではわからないんだけど……」
 言いながら、手元にあった引き出しを開け、がさごそと漁り始めた。
「けどさ、その……暦を枕元に置いておいて、不要になった分を捨てるなんて、元々やってて習慣付いてないと忘れそうだよね。もう紅塗月の終わりだから、今から習慣にするのも難しそうだし……だから、その……」
 カミルは非常に言い難そうに口籠りながら、二枚の羊皮紙を取り出した。テレーゼとフォルカーが覗き込んでみれば、それはどちらも、紅塗月の暦だ。紙の四隅に、これが魔道具である事を示す紋章が描かれている。
「これ……月が変わると、勝手に次の月に書き換わる暦……。安くしとくから、良かったら……買わない?」
 恐る恐る言うカミルに、テレーゼとフォルカーは顔を見合わせ、そして吹き出した。
「なんだ、商売のための嘘かよ、カミル?」
「う、嘘じゃないよ! 暦を枕元に置いておくと良いっていうのは、本当で……」
「そうよね」
 頷き、テレーゼは微笑んだ。
「カミル、絶対に嘘ついたりはしないものね。だからこそ、いつまで経っても商売が下手なんだろうけど……」
「そうなんですのよねぇ……」
 困ったように、レオノーラがため息を吐いた。
「カミル=ジーゲル様は、魔道具職人としての腕前は、既に一人前でございますわ。それに、人当たりも良うございますから、同業の方々とも揉める事無く、お話しをする事がおできです。ですのに、そのお優しいお人柄から、いつまで経っても商売がお下手で……お客様に下に見られ、値切られたり、結局購入して頂けなかったり……これさえ無ければ、いつでも支店を任せる事ができると、ヴァルター=ホルツマン様も仰っておいでですのに……」
「お、親方の事は、今は良いよ……」
 やや消沈した様子のカミルに、フォルカーが少し意地悪気な笑みを浮かべて近寄った。
「つまり、アレだな。いつまで経っても商売が上達しねぇカミルも、十三月の狩人の獲物に選ばれる可能性があるってわけだ」
「嫌な事言わないでよ!」
 悲鳴のような叫び声をあげるカミルを宥めつつ、テレーゼはフォルカーの頭を軽く小突いた。
「今は、それを言うタイミングじゃないでしょ、馬鹿フォルカー!」
 そして、カミルの方に向き直る。
「だ、大丈夫大丈夫! 私達と違って、カミルは本当に頑張ってるんだし! それに、まだ紅塗月よ? あと一ヶ月で、全員が一気に成長する可能性だってあるじゃない!?」
「テレーゼ=アーベントロート様、それはいささか、楽観的に過ぎません事?」
 呆れたように言うレオノーラに、テレーゼは「良いじゃない!」と眉を吊り上げる。そして、再びカミルに向き直った。
「カミル、その魔道具の暦、買うわ。もしも十三月の狩人に狙われたとしても、絶対に逃げ切ってやるんだから!」
「あ、ありがとう……」
 礼を言うカミルに銅貨を手渡し、テレーゼは暦を受け取った。やはり怖い事に変わりはないのか、フォルカーも同じようにする。
「もしも、カミルも十三月の狩人に狙われたりしたら……私とフォルカーが助けるわ。だからカミルも、もし何かあったら、私達を助けてくれるわよね?」
「それは……勿論!」
 力強く頷くカミルに、テレーゼとフォルカーは頷き返す。そしてしばし雑談をしてから、二人は家路に着いた。
 氷響月が――一年が終わるまで、あと三十六日。


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  ◆


 時は、あっという間に流れていく。早いもので、今年も残すところあと僅か。
 氷響月の三十二日。新年を祝って食べるためのプディングをオーブンから取り出し、テレーゼは居間へと運んだ。
「ギーゼラ先生、プディングが焼き上がりましたよ」
「ありがとう。じゃあそれはテーブルの上に置いて、冷ましている間にこちらの部屋の片付けを手伝ってもらっても良いかしら?」
「はい」
 遠くから聞こえた声に快く返事をして、プディングには虫と埃を避けるための布巾をかける。テレーゼは料理用のエプロンを脱ぐとギーゼラが片付けに着手した部屋へと向かった。入ってみれば、部屋の中は水晶玉に埃だらけのイモリの黒焼き、枯れてしまった薬草に、何かの獣の頭蓋骨などが所狭しと散乱し、足の踏み場も無い。
 齢七十になろうとしている魔女ギーゼラは優しくて良い師匠なのだが、片付けが下手くそな事だけが欠点だ。苦笑をして、テレーゼは散らかっていた物をどんどん片付けていった。
 大きな物は棚に入れ、細かい物は箱にまとめてから仕舞い、物が粗方消えたところではたきをかけていく。途中で、遂に邪魔に感じたギーゼラを部屋の隅に追いやってしまった。ギーゼラは特に怒る様子も無く、「あらあら」などと言いながらテレーゼの仕事ぶりを眺めている。
 やがて、部屋は散らかっていたのが嘘であるかのように綺麗に片付いた。心なしか、床が輝いて見える。
「お疲れ様。本当にテレーゼは掃除が上手いわねぇ」
 ほわほわとした空気を纏いながら、ギーゼラは嬉しそうに部屋を見渡している。少し照れながら、テレーゼはギーゼラを部屋から押し出した。
「先生、ちょっと休憩にしましょうよ。私、お茶を淹れますから」
「そうねぇ。お願いしようかしら」
 嬉しそうに言うギーゼラに、テレーゼはやはり嬉しそうに頷いてキッチンへと向かった。こうして、優しいギーゼラに魔法を教えて貰いながら日常生活を送る事が、テレーゼは楽しくてたまらない。
 それなのに、いつまで経っても魔力は増えず、魔法も上達せず……。それが、テレーゼはもどかしい。早く上達したい。上達した姿を見せて、ギーゼラを喜ばせたい。
 そんなテレーゼの気持ちを知ってか知らずか。ギーゼラはテレーゼが淹れたお茶を一口飲むと、ほう、と息を吐いて幸せそうに言った。
「美味しいわ。テレーゼは本当に、掃除も料理も、何でも上手ね。魔法だって、魔力さえ足りていれば、どんな物だってすぐに覚えてしまうし。優秀で可愛い生徒がいて、私は幸せだわ」
「先生……」
 思わず、ティーカップを両手でギュッと握り。知らず知らずのうちに暗い面持ちになりながら、テレーゼは呟いた。ひょっとしたら、泣きそうな顔になっているかもしれない。
 ギーゼラは、もう一口お茶を飲むと、再びほう、と息を吐いてからにこりと笑った。立ち上がり、テレーゼの横に立つと背中を軽く叩く。
「花降月になれば、祝福の花が天上から降ってくるわ。花に触れれば触れるほど、魔力が増えるのは、知っているでしょう? 明日は二人で、たくさん花を集めましょうね。それから、これからも魔力を増やす修行を頑張りましょう?」
「先生……はい、頑張ります……!」
 涙を隠しながら頷いて、テレーゼはまだ熱いお茶を一気に飲み干した。心の中で、明日からもっともっと頑張ろうと誓いながら。
 氷響月が――一年が終わるまで、あと半日。


  ◆


 空気の冷たさに、テレーゼは目を覚ました。心なしか、外が白い気がする。
「そっか、今日から花降月だっけ……」
 窓の外を見れば、白い花が雪のように降り注いでいるのだろう。そうだ、その花を集めようと、昨日ギーゼラと約束したのだ。早く起きて、仕度をしなければ。
 そう思い、身を起こして。そこでテレーゼは首を傾げた。
 視線の先には、紅塗月の終わりにカミルから買った、魔道具の暦。月が変わると自然に暦の中身が書き換わるという物で、たしかに紅塗月から氷響月になった時は勝手に中身が変わって驚かされた。
 それなのに、今。テレーゼの目に留まっている暦は、氷響月のままだ。花降月に変わっていない。
「……何で……? まさか、もう壊れた……?」
 訝しげにしながら暦を眺め、そしてハッとした。
「考えるのは後! 朝ご飯を食べて、それで、先生と花を集めに行って……」
 ブツブツと独り言で今日の確認をしながら、居間へと向かう。そこで、足を止めた。
 居間のテーブルに置いておいたはずの、昨日作ったプディング。無くなっている。
「おはよう、テレーゼ。……どうかしたの?」
 ギーゼラが起きてきた。そこでテレーゼは、少し困ったような顔をして問う。
「先生……昨日作ったはずのプディングが、消えているんです。どこかに移動しました?」
「プディング?」
 不思議そうな顔をして、ギーゼラが首を傾げた。
「あなた、昨日はプディングなんて焼いていないでしょう? 昨日は一日、薬草を探して歩き回っていたんだもの」
「……え?」
 テレーゼの目が見開かれる。それと同時に、頭の中で血が逆流しているかのような感覚を覚えた。どくんどくんと、心臓が波打つ。様々な言葉が、可能性が、頭を駆け巡る。そして終いには、一つの言葉だけが何度も何度も、頭の中をぐるぐると回り続ける。
 まさか、まさか……まさかまさかまさかまさか……!
「……先生……今日って、何月何日でしたっけ……?」
 震える声で問うと、ギーゼラは「あらあら」と困ったように笑った。
「氷響月の一日よ。夕べ、カミルから買った暦が変わるのをあんなに楽しみにしていたじゃないの」
 どくん、と一段と大きく心臓が鳴った。それを押し隠し、テレーゼは努めて冷静になりながら、苦笑して見せる。
「そ、そうですよね。あは、あはは……ちょっと、寝惚けてたみたいで……」
「あらあら、大丈夫? 昨日歩き回って、疲れたのかしらね? 新年の準備は、テレーゼが頼りなんだから……今日は一日ゆっくり休んで、明日からまた頑張りましょう?」
 一日休めと言われてしまう程、狼狽した顔をしているのだろうか? 冷静に振舞ったつもりだったが、隠せていなかっただろうか?
 余計な事は言わずに頷き、テレーゼは自室へと戻る。戻る途中で、ギーゼラの部屋が視界に入った。扉が開けっ放しになっている。昨日片付けた筈の水晶玉に埃だらけのイモリの黒焼き、枯れてしまった薬草に、何かの獣の頭蓋骨などが散乱しているのが見えた。片付けが下手なギーゼラと言えども、流石に一晩でここまで散らかる事は無い。
 やはりそうなのだ、と、テレーゼは自室に入りながら思う。
 氷響月を、繰り返している。一年を、もう一月余分に過す事になっている。それは、つまり。
 自分は、十三月を迎えてしまった。十三月の狩人に、獲物として狙われる立場となってしまったのだ。
 カミルが、枕元に暦を置いておけば十三月の狩人に狙われているかどうかがわかる、と言った意味がわかった。思えば、昨夜は花降月を迎えるまで起きていようと思ったのに、早々に眠くなり寝てしまったのだ。あの時、既にこうなる事が決まっていたのだろう。
 とにかく、十三月を迎えてしまった以上、狩人に狙われる事はきっと避けられないのだろう。ならば、一刻も早く対策を考えなければならない。
 そうだ、フォルカーはどうなっただろう? カミルは?
 十三月の狩人に狙われるのは、一人だけなのだろうか? 何人狙われるかわからないと、レオノーラが言っていなかったか?
 まずはそれを確認しなければ、二人に会わなければ、とテレーゼは思う。
 二人が狙われていないにしても、本来の氷響月の一日には既に三人とも、十三月の狩人についての知識を共有していたのだ。ならば、事情を話せば助けになってくれるかもしれない。
 二人も狙われているのだとしたら、より一層合流すべきだろうと思う。助け合えれば、この十三月を無事に乗り越えられるかもしれない。
 そう考え、そしてテレーゼは荷造りをする。小さな鞄に、財布と薬類を詰め込んで、背負った上にローブを纏う。
 出掛けるところをギーゼラに見付かったら、恐らく上手く説明できないだろう。見付からないよう気を付けながらテレーゼは自室を出、家を出た。
 まず最初に向かうのは、フォルカーの家だ。そこで合流して、そして中央の街にいるカミルの元へと向かうのが良いだろう。
 辺りの様子を伺いながら頭の中で確認し、そして走り出す。
 氷響月が――一年が終わるまで、あと三十二日。

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